モバイル研究家の木暮祐一さんは携帯電話の収集で知られる。30年以上前の自動車電話から始まり、いまやコレクションは日本有数の規模とされる2千台にのぼる。ケータイをめぐっては日本が一時、世界の最先端を走ったが、米アップルの「iPhone」によって主導権を奪われた歴史がある。そんな栄枯盛衰を振り返ってもらった。
「いつか大人買いしてやるぞ」
携帯電話との出合いは1980年代後半、学生時代のアルバイト先だった自動車販売店。社長車に自動車電話を見つけました。衝撃でした。場所を問わず、家族に聞かれることなく会話ができる。固定電話は大嫌いでしたが、携帯電話には一気にのめり込みました。
2年ほどお金をためて、私も自動車電話を愛車に取り付けました。最高級のアクセサリーと考えたのです。ただ契約するのに20万円以上、基本使用料が月1万7千円ほどかかった記憶があります。非常に高く、数カ月使って泣く泣く解約。「いつか大人買いしてやるぞ」と誓い、カタログでの情報収集にいそしみました。
本格的に携帯電話を集め始めたのは社会人3年目の94年。新製品が発売される夏と冬に、各通信会社で複数台ずつ購入しました。肩掛けのショルダーホンを手に入れたのもこの頃です。重さはなんと2・5キロ!
それだけ買えたのは、国内の携帯電話事業に2グループが新規参入し、契約手数料や基本料金の引き下げ競争が加速したから。高値の時代を知っていたので、「この値段だったら、もう1台いけるな」という感覚でした。1、2年後には加入者の獲得を優先して電話機を「0円」で売る手法も広がります。特に関西で先行しており、よく大阪まで仕入れに行きました。
コレクションは、スマートフォン登場前に限れば、国内で発売された機種の半分ほどはそろっています。肌身離さず持ち歩くので、愛着を深めやすかった。台数が増えるとともに、電話番号も一時は30近くに。外出の際には何台もの電話機を持ち運び、電波の受信状態がいいものを選んで通話していました。私用の名刺にも多数の番号を入れ、「どれにかけていいか、わからない」と、電話がかかってこなくなったことも。大変でした。
97年にはショートメールがスタート。これをきっかけに日本の携帯電話は独自規格のもと、ネット接続、カメラ、電子マネーなどの高い機能を次々と備えていきます。間違いなく、世界の最先端でした。生物が独自の進化をとげた太平洋の孤島にたとえられる「ガラパゴス携帯(ガラケー)」です。
そして99年末、カラー画面が登場します。この年にはNTTドコモのネット接続サービス「iモード」が始まっていましたが、モノクロの小さい画面で文字だけの情報をやりとりするのにはメリットを感じない人も多かったと思います。
2004年には電子マネー機能を載せたドコモの「おサイフケータイ」、06年には地上デジタルテレビの携帯向け放送「ワンセグ」など、新機能が毎年のように追加され、わくわくしていました。
画面はカラー化とともに、画像をより鮮明に映せるようになります。06年には世界で初めて、その10年ほど前のパソコンと同程度の画質で表示できる機種が発売。これなら、たとえば医師が離れた場所にいる患者の心電図をリアルタイムで見ながら診察することもできるのでは、と考えました。オンライン診療の拡大に向けた政策提言など、現在の活動を始めるきっかけにもなった出来事です。
ビジネスモデルもiモードで変わりました。それまでの通話料収入に加え、データ通信料で稼ぐ仕組みを新たに生み出した。電話機が高機能になればサービスも複雑、高度になり、連動してデータ通信量が増える。通信会社は、これを収益源の柱に据えました。
こうしたガラケー隆盛の状況を一変させたのが、07年に米国で売り出された初代iPhoneです。日本では発売されませんでしたが、どうしても欲しくなって米グアムに飛び、入手しました。
実際に触って、驚きました…
からの記事と詳細 ( ケータイ2千台コレクターが語る 肩掛け電話、初代iPhone - 朝日新聞デジタル )
https://bit.ly/3u4397I
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